再び郷里に、そして持ち主のいなくなった寂しいBMWと叔父の衝撃的な事実に涙する。
雨の止む気配もなく鬱々と降り続く雨に
この所各地で集中豪雨の被害のニュースが入るたびに
虚しく悲しい気持ちになって居ました。
そんな中重い気持ちを引きずって
コロナの予防も万全?に
爺さんと一緒に郷里に向かいました。
出掛ける前に森の散歩でタマアジサイの蕾が
膨らんでいるのを見て心が少し和みました。
タマアジサイの蕾はコロンとした球形で
如何にも愛らしい。
藪茗荷の花も咲いていました。
ツユクサ科なのだそうです。葉は茗荷の葉に似ていて
そんな名前が付いたのだそうです。
我が家の庭にも野鳥が啄んだ種を落としたのか
鈴蘭の場所に出てきましたが草とはわかっていても
除草できずにそのままにしています。
コバギボウシです。
可愛い薄紫の花弁をつけます。
郷里に向かう途中のコロナのせいか
がら空きの新幹線の車窓から見る
瀬戸内海に面した徳山の工業地帯の風景です。
月日が流れて変わっていく風景の中で
瀬戸内海の海は変わらず私を迎えてくれているような気がします。
両親の事、祖父母や親戚の出来事などが走馬灯のように
流れていきます。人生はあっと言う間に過ぎていきます。
この歳になっても 生き方やものの考え方を反芻するばかりです。
小郡、今の新山口の駅の上から眺めてみましたが
子供の頃の賑やかな風景とは打って変わった変貌ぶりに
気持も沈みます。地方都市の地盤沈下はこの国の将来さえ
危ぶまれる気がします。コロナを始め中国等様々な危機を
思う時に日本はこの先どうなっていくのだろう
などと考え込んでしまいました。
従弟の家の車庫で彼が2か月前に買い替えたばかりの車を見て
主を失ってそれが寂しく打ち捨てられているように感じてしまいました。
彼は生涯独身を通しましたが職業的にも乗り物が好きだったのではと。
寂しい人生だったと考えたりもしましたが
実はいつまでも青春を謳歌して自分の趣味に生きたんではなかろうかと。
それは実は彼にとって幸せな事だったのではと
思えるような気もしてきました。
今となってはそれを知る由もありませんが
整理をしていて見つけた彼が書き残した記録などを見ていますと
同じ趣味の同じ年代の仲間の事も書き記しておりましたので
今は彼が人生を彼なりに楽しんでいたのだと
思うようにしています。私たちは従弟ですので相続権は
ありません。これらすべては国庫に入ることになりますが
幾多の人を助けてきたわけですので又残したものを
国で使って頂くことは本望ではと思います。
傍らのハーレーも寂しそうです。
叔父の書と聞いていましたが
今となっては知る由もありません。
達筆であったとは祖母の話ですが、
此れが形見となる様な気もします。
帰宅して掛けるところもありませんが一応和室に掛けてみました。
私にとってはとても勢いのある魅力的な書です。
従弟の読書家ぶりが窺える書物の数々。
今まさに読みたいと思う書物ばかりでした。
無造作に伯父の書斎に積み重ねられておりました。
向かって左の叔父が明治大学在学中に友人と写った写真と思われます。
丁度この前後我が父も大学在学中に同じく学徒出陣で
雨の神宮行進に参加したと聞いています。
激動の昭和を生きてきたと思うと
その後の苦労を想い胸が熱くなります。
叔父のこの写真の若く希望に満ちた表情を見て
その後の幾多の苦労を思うと人生とは何かと
問わずにはおられません。
飛行服を着て軍刀を持った叔父と同期と思われる方。
叔父は生前草柳太蔵さんと同期で同期会での話も
してくれたことが有りました。それが懐かしく思い出されます。
実際偵察機のパイロットだった叔父は実戦はしていないと思われますが
相当な苦労をしたと思います。叔父は戦争の話は殆どしませんでした。
この時代に生きて、そして若くして祖国のために亡くなった若者すべてに
鎮魂と祈りを捧げたい気持ちでいっぱいになりました。
叔父のアルバムの中に有った戦時中に
叔父が搭乗していたと思われる偵察機の古い写真。
今回見つけた書類の中に有った
叔父の戸籍のなかに見つけた寛子と言う女性の名前と
幼い男の子の名前を見て少なからずショックを受けました。
叔父が再婚であったという 今まで知る由もなかった事実。
叔父が戦地から帰国し幼馴染?と結婚したものの
戦後の混乱期に栄養状態も悪く病気で新妻とまだ幼い息子を
失くしたのだと想像しました。
新妻と幼い息子の両方を亡くすことの現実がどんなに
残酷なことか!そんな叔父を思って
暫くあふれる涙を抑えることが出来ませんでした。
叔父は何か人生を達観したようなところがありましたが
今それが叔父の生きてきた人生の中での出来事によるものと
思えてきました。
世の中はこの歳になっても知らない事ばかり、
人間は自分の行く末さえ予測不可能です。
手探りの中で前向きに今を生きる事しかできません。
上の飛行機の模型は 従弟が操縦桿を握っていた救難飛行艇の模型です。
多分退官時に有志に送られたものと思います。
叔父の息子、私の従弟は叔父とはそりが合わなかった気がします。
父と息子特有の反発もしていました。
けれども叔父の軍歴を調べた形跡があったり
叔父と同じ厳しいパイロットの道を選んだという事は
矢張り叔父の事は親として尊敬もしていたのではと思います。
優秀な彼でしたからどんな未来もあったろうと思いますが
聞くところによるとパイロットとして入っても
半分以上は脱落する世界と言う事ですから、その中で常に上位に
位置し体と神経をすり減らしてきた彼もまた
変わり者ではありますが尊敬に値すると感じています。
そして残された私が爺さんと愛をこめてそんな風に思い
弔ってやることが彼が生きた証であるとも思っています。